学校日記

サッカー部 都大会二回戦 VS 本郷中

公開日
2024/08/07
更新日
2024/08/06

部活動

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令和6年度 第63回東京都中学校総合体育大会 兼 第77回東京都中学校サッカー選手権大会  小松川中学校 対 本郷中  都大会二回戦 @江戸川陸上競技場 

7月24日(水) 10:00KO


シード権を与えられた小松川中学校のサッカー部は24日(水)江戸川区サッカーの聖地 江戸川陸上競技場で前日に忠生中に1-3で勝利し勝ち上がってきた本郷中との対戦となった。試合開始前にスタンドからの応援となる一年生を交えた大きな円陣で勝利を誓う(一枚目の写真)。午前10時のキックオフなのでまだ気温は上がり切っておらず、荒川と新左近川の角にある江戸陸は爽やかな風が吹き抜け体感温度は野球部が昨日まで戦ってきた内陸部よりは低そうだ。


対戦相手の本郷中サッカー部100人を超える部員を抱え、都大会にも数多く出場経験のある強豪校だ。週に4日の練習で結果を出しているところを見るとかなり効率よく練習をしてきているのだろう。また、クラブチームとの対戦数は多く、クラブチームとの練習試合はもとよりクラブチームが参加する大会への出場も多い。そんな本郷中サッカー部がこの試合では黄色いユニフォームを着用するために、小松川中サッカー部は緑のユニフォームを着用した。黄色いコマ中のユニフォームを見慣れていた応援席は一瞬どちらかわからなくなることがあるが、上緑下黒ストッキング黒が小松川中学校だ。


開始早々ボールを奪われ前後左右の巧みなパスで翻弄される。髪の毛を切り新たな気持ちで都大会に臨んだNo.6小松川中のモドリッチと中盤を構成するNo.10の動きは悪くなく前線にパスを蹴りだすがセカンドボールを奪われてしまう。そのボールをサイドハーフがドリブルで駆け上がってくる。中盤での混戦の場面ではバックパスで一度キーパーに戻し、ゲームを落ち着かせてからサイドチェンジ。駆け上がってくるサイドハーフをサイドバックがオーバーラップしたかと思うと斜めにセンターに食い込んでくる。小松川中のDFラインはタッチライン沿いに駆け上がってくる本郷中によって左右に分断され、ボランチがその間を埋めざるをえない。ラインが下げられ、No.7, No.9も自陣に押し込まれた形になった。


まるで1990年代後半のJリーグの戦術を見るかの様な本郷中の動きに懐かしさを覚えた保護者の方も大いのではないだろうか。1993年に開幕した日本初のプロサッカーリーグリーグ。その黎明期である1990年代はマスコミもサポーターもまだ成熟しておらず初歩的な解説がスポーツ雑誌の紙面で取り上げられ、テレビのニュースでも触れられたりもした。特に1980年から日本サッカーを牽引してきたハンス・オフト元日本代表監督がマツダ(現サンフレッチェ広島)やドーハの悲劇の際の日本代表(1993年10月28日)に繰り返し語っていたボールを持った相手選手に対して三角形をつくって対応するといった基本的なポジショニングを本郷中は正確にこなしていた。攻撃時も守る際もこのトライアングルは崩さず、少しでもそれがずれるとベンチから声がかかるといった念の入れようだった。加えて4人のDFの間の間隔を広げてスペースを作るためにタッチラインを駆け上がっていくというシンプルな戦法岡田武監督が率いて出場した1998年のワールドカップフランス大会でも多用された。鹿島アントラーズで長くプレイした相馬直樹(昨年度まで大宮アルディージャ監督)や奈良橋晃(ベルマーレ平塚、鹿島アントラーズ)がサイドから駆け上がりセンターに向けて繰り返しセンタリングを上げ続ける日本代表のスタイルは既に時代遅れにはなっていたが、当時の日本の攻撃パターンとして定着していた。その動きで本郷中は繰り返し、ゴールに襲い掛かってくる。最後まで走って楔のマイナスのクロスを上げさせるか、途中から真ん中に切り込むかは本郷中のNo.10が小松川中の動きを見て選択していたようだ。その意味では防戦一方でその場しのぎとなっていた小松川中に対して、冷静に得点への動きを計算し最短距離でボールを運ぶ本郷中は残念ながら一枚も二枚も上のサッカーをしていた。この時点まで小松川中はサッカーらしいサッカーをさせてもらえなかったと言えよう。



前半が終わって0ー3。圧倒的な疲労感を小松川中サイドは感じていた。特にゴールキーパーはボックス内で横に運ばれるボールの動きに神経をつ使い、距離感とシュートの方向がつかみにくい状況だった。それでも気を取り直して後半に向けて気持ちをリセットした。後半開始早々やはり同じスタイルでタッチライン際を駆けあがってきたDFが放つ裏へのパスに反応が遅れ失点。このままずるずる行ってしまうのではないかと言う不安を払拭するためにベンチが早めに動いた。フレッシュな選手を投入し打開を図る。給水明けに投入されたNo.17小松川中のエムバペが、ピッチに立った1分後には相手チームの3人を置き去りにしてシュートを放った。惜しくも枠を捕らえられなかったがそのインパクトは大きく、本郷中はマンマークに人を割かなくてはならない。その後何度か相手ゴールに迫る場面もあったがゴールは遠くタイムアップ。0-6と大差をつけられての敗戦となった。



小松川中サッカー部は6月18日豪雨の中の葛西三中戦で覚醒し、それ以降試合ごとに実力をつけてきた。その進歩は目に見えるほどでたった一か月でJFLからJ1へ昇格した様な変化だった。それぞれの選手の自覚が経験と結びつきそれを肉としてきた。その中でNo.6キャプテンマークを巻いて小松川中のモドリッチの貢献度は群を抜いており、攻守の要ではなくゲームの要としてフレキシブルに走り回っていた。どこのポジションでも優れた才能を発揮できるレベルのタレントを兼ね備えたNo.6.。チーム事情からDFの前での守備的ボランチの役割を余儀なくされた。総体1,2回戦はNo.10とのコンビネーションがうまくいかず、自身が前に出る事も多かったが機転の利いたNo15が裏のスペースを消してくれた。その後、DF陣に自覚が芽生えてくる。中途半端なクリアボールが少なくなり徐々にラインを上げられる展開が多くなる。そうなるとNo.7クリロナNo.9ガビがサイドを駆け上がれる余裕が生まれた。ただ、フィニッシュに持ち込める選手がおらず小野寺総監督が何度も「斜めに切れ込め」と指示を出していた。暑さの中での試合に勝ちぬいていくには選手層の厚さも必要だが、試合中に冷静にゲームをコントロールできるしたたかさも必要になってくる。また、ロングボールやバックパスなどでフォーメーションを立て直しピッチ上の選手全員が前を向く時間が取れるような時間が必要だ。そういった意味では本郷中の戦い方は理想的な戦術だったと言えよう。


下を向いている時間はない、すぐに次の大会が始まる。3年生は残念ながら引退だが、彼らは小松川中サッカー部の大きな礎を作ったと言える。新しいチームは新チームだが今年の総体、都大会の経験を活かして今年以上のチームを作り上げて欲しい。


「いくぞコマ中!!がんばれサッカー部!!」


※ 小松川中を破った本郷中は3回戦で多摩大目黒中をPKで下し、4回戦で修徳中に3-1で敗れた。その修得中は決勝戦まで勝ち上がり、決勝で駒場東邦中に0-1で敗れるも関東大会への出場権をつかんだ。