山疎会のページ
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やまと |
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つるえ |
平成18年3月、山疎会の方々より頂いたお人形です。名前はやまと(左上)とつるえ(右上)になりました。
第三葛西小学校の図書室に飾ってあります。
「命名の由来」
やまと(
山
形県と東京
都
から)
つるえ(
鶴
岡市と
江
戸川区から)
※山疎会の方々は戦時中、山形県鶴岡市に疎開されました。
山疎会の方々には、疎開中のお話などをしていただいたり、学年の総合の時間にお話をしていただいたりもしました。
山疎会の皆様にうかがったお話をもとに「山疎会物語」を作りました。
「山疎会物語」のページ
これから「さんそ会物語」を始めます。 |
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今から六十年前はどんな様子だったかと言いますと、そのころの日本は戦争の真っ最中でした。それは、アメリカなどの国々と対立して起きた大きな戦争でした。この戦争は、「太平洋戦争」と呼ばれています。 |
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そして、その戦争は日増しに激しくなってきて、いつ、アメリカの飛行機が東京の上空にやってきて爆弾を落とすか分からない、とても危ない状況になってきました。 |
そこで政府は、東京などの都会に住んでいる子ども達が爆弾にあたって死んだりしないようにするために、都会の子ども達を安全な田舎に移して、そこで生活させることにしました。 |
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昭和十九年八月、そのころ第三葛西国民学校と呼ばれていた当時の第三葛西小学校の子ども達にも、いよいよ「学童疎開」する日がやってきました。 |
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その日から一年以上の月日を、第三葛西国民学校の子どもたちはお父さんお母さんと離ればなれになって、さびしく、とてもつらい学童疎開の生活を送ることになったのです。 |
小学校の子どもにとって、おうちの人と別れ別れになって生活することは、とても寂しく、悲しいことだったに違いありません。 |
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学童疎開の生活で、とても辛かったことは、食べ物がなくて食べられなかったことです。第三葛西国民学校の子どもたちは、いつもおなかをすかせていました。 |
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ぎんなんの実を十粒ほど拾って、宿舎に持って帰り、それをおじさんに炒ってもらって食べたことがありました。あの時の味は今でも忘れられません。 |
ある時は、農家のお手伝いをして、その帰りかけにおばさんから大きなおにぎりをいただいたこともありました。お米の少ない時代に、僕たちにおにぎりを食べさせてくださったおばさんの優しい顔を忘れることはできません。 |
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足りなくて困ったものは、食べ物ばかりではありません。くつは値段が高いので買ってもらえないので、みんな、冬でも下駄を履いて学校に行きました。下駄のはに雪が詰まって、何度も転んでは泣いていました。 |
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昭和二十年の二月二十八日、六年生の安藤君は東京の家に戻ることになりました。四月に中学校に入る準備をするためです。汽車に乗って東京に帰っていく安藤君をみんなで線路まで出ていって、見送りました。 |
安藤君は、十時間ぐらい汽車に乗って、やっと、東京に戻ってきました。上野駅から秋葉原に行き、北葛西の家に向かって歩いているときです。急に大きなサイレンの音がして、「空襲警報、空襲警報」と叫ぶ声が聞こえてきました。 |
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東京に戻ってきた安藤君が見た恐ろしい物体。それはいったい何だったのでしょう。 それは、東京に爆弾を落とすためにやってきたアメリカのB二十九という飛行機だったのです。 |
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そのころから毎日毎晩、東京にはたくさんの爆弾が落とされ、そのために、たくさんの人々が死んでいきました。 |
東京に戻ってきた安藤君は、この東京大空襲を経験した一人です。安藤さんのお話によると、この日はたくさんの爆弾が落とされると言うので、家族みんなで第三葛西小学校に避難したのだそうです。しばらくすると、今、ジャスコのあるあたりに焼夷弾が落とされて、みるみる周りの家が燃え始めました。これでは学校も危ないというので、次に宇喜田稲荷神社に逃げました。 |
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そして、やっと爆弾攻撃が終わったので、家に戻ることにしました。途中、学校の正面玄関のところを通ると、そこには遠くから逃げてきた百人ぐらいの人たちが折り重なるようにして集まっていました。女の人の泣く声や「痛い、痛い。」と大声で叫ぶ声が聞こえてきたそうです。 |
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東京大空襲の後、八月には広島と長崎に原子爆弾が落とされ、また、たくさんの人が亡くなりました。
そして、ついに日本は、八月十五日に降伏し、戦争をやめることにしたのです。 |
やっと、戦争が終わりました。戦争が終わったので、学童疎開の子どもたちは、ぞくぞくと懐かしい東京の江戸川区に戻ってきました。東京はどこもかしこも爆弾を落とされ、焼け野原になっていました。 |
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その日から、約三十年の月日が流れて、学童疎開の時小学生だった人たちは立派な大人となり、結婚をし、子どももできました。そして、自分たちの子どもが、自分たちの学んだ第三葛西小学校に入学するようになりました。 |
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スタートした「さんそ会」の人たちは、自分たちが学童疎開をしたとき、とてもお世話になった山形県鶴岡市の人々に何か恩返しできることはないかを考えました。 |
そして、その年の夏、山疎会の人たちは、鶴岡の人々にお世話になった恩返しとして、江戸川の金魚をトラックに積んで鶴岡まで運んで行き、内川に放すことに取り組むことになりました。 |
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山疎会の人たちは、次の年もまた次の年も、たくさんの金魚を運び、鶴岡の川に放しました。自分たちが学童疎開で苦しかったときに励ましてくれたり、おにぎりなどをくれて助けてくださった鶴岡の人たちのご恩に報いるという熱い気持ちを持って、山疎会の人たちはこの活動を続けていきました。 |
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山疎会の人たちは、それぞれ、自分でできることは自分の力で恩返しの活動をしています。 学童疎開の時、ゴミ捨て場から渋柿の皮を拾って食べた神尾さんは、現在、「うな神」というウナギやさんを営んでいますが、神尾さんは、ウナギの料理には出さないウナギの頭の部分を取っておき、それをまとめて甘辛く煮込んだ甘露煮にして、鶴岡市や山形県にある老人ホームにそれを毎月送り届けています。このことは、三年ほど前、読売新聞で「ウナギの恩返し」という見出しで紹介されました。 |
昨年は、学童疎開があったときからちょうど六十年目にあたる年でした。昨年十二月には、船堀タワーホールで「学童疎開切り絵展」が開催されました。そして、「学童疎開があったころ」という切り絵の本も発行されました。 |
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山疎会の人たちは、二つのふるさとの大地に抱かれて育ちました。一つのふるさとは、この世にたった一つしかない自分たちの母校、第三葛西小学校がある江戸川区葛西。そして、もう一つのふるさとは、少年時代、苦しく悲しい生活を地域の人々に助けられ、仲間とともに支え合い励まし合って過ごした山形県鶴岡市です。 |
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私たち第三葛西小学校の先輩でいらっしゃる山疎会の方々は、ビリーブの歌詞の言葉にあるように、互いに励まし合い助け合って長い人生を歩んでこられました。そして、いつも、人々への温かい感謝の気持ちを持ち、自分ができることは進んで実行する努力を続けてこられました。 |