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学校日記

西小松川小学校のあゆみ【第5回】開校20周年記念誌の座談会で開校時を振り返る

公開日
2024/05/10
更新日
2024/04/29

できごと

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 5月10日は本校の開校記念日です。開校20周年記念誌に「20年をふりかえって」と題する座談会が掲載されています。ここに開校当時のことについて詳しく記されているので、記事を引用しました。開校当時の雰囲気を感じ取っていただけると幸いです。記事の引用に際しては今から50年以上も前のことなので個人の特定は難しいと考え、苗字のみ記載しております。この記事を読むと第3代大森校長(昭和34年~36年)の頃に鼓笛隊が組織されていたことや、桑田先生と一緒に平井康三郎先生に作曲を依頼しに行った石川先生が校歌の完成について述べている個所もあります。桑田先生が創作劇台本作成や水泳指導等で大活躍だったこと、本校は体育館より先にプールが設置されたので、プール設置に至る経緯、父母の会や地域の支援により学習環境が整備されていったことも伝わってきます。なお、上記の写真は開校20周年当時のものを集めました。当時、4階建ての校舎はめずらしかったようです。校舎の増改築の歴史は70周年記念誌をお持ちの方はp.11をご覧ください。校章・校歌についての文書は江戸川区立小中学校の校章・校歌を平成元年に本にまとめたものを引用しました。この本は区内図書館で見ることができます。石碑は20周年当時の校長上山先生がお書きになったもので、今も体育館横に「にしこ希望の丘(旧名「たんれん山」)」を見守るように設置されています。以下、引用が長くなりますがご覧ください。

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座談会 二十年をふりかえって

出席者 初代校長:宮川先生、父母の会会長:寺尾さん、上小岩校長:玉主先生、船堀第二校長:川 先生、

     第一回卒業生:斎藤さん・高田さん、校長:上山先生、PTA会長:佐々木さん、

     本校教諭:石川先生・佐久間先生、

司 会 本校教頭:伊東先生

【司 会】ただいまから約二時間ぐらいの予定で座談会をはじめたいと思います。かたいお話ばかりでなくやわらかいお話なども折りまぜてお願いいたします。はじめに本校の校長上山先生にごあいさつをおねがいいたします。

【校 長】本日はお忙しいところご苦労様です。本校も今年で満二十周年を迎えることになりました。鉄筋校舎も完成し、施設完成と共に今秋十一月二日に二十周年記念式典を挙げることになりました。その際記念誌を発行することになりましたので二十年前にさかのぼって思い出話、苦心談、愉快なお話などいろいろとしていただき記念誌の一節を飾りたくお集まりいただきました。できるだけバラエティにとんだお話をどんどんお気軽に出していただきたいと思います。時間が足りないかも知れませんがよろしくお願いします。

【司 会】昭和十八年には第二松江小学校の分校として敷地が決まっていたようですね。

【玉 主】そうです。その頃はまだ敷地に野菜を作ったりジャガイモを植えたりしたことを覚えています。その頃はたんぼも多く夜は蛍もとんで、東京の田舎といいますか蛙のなぎ声もきかれ 風情がありました。

【司 会】昭和二十三年五月校舎が落成、十二学級で分校が発足し二十七年四月、西小松川小学校として独立したんですね。その時は一躍二十三学級にふえていますね。

【宮 川】はい、創立以来生徒の増加で増築増築にあけくれました。いろいろなことがありましたけど校長として困ったことは特別ありませんでした。それというのもベテランの先生方が揃っていましたし、父母の会の会長寺尾さんはじめ後援会の方々の積極的な援助がありましたので、何一つ心配しないで存分に働くことができました。今思ってもほんとうにありがたく思って居ります。実に楽な校長でした。六年間というもの私は実に愉快にすごしました。

【 川 】分校当時二回、独立してから三回、計五回にわたる増築で目ざましい発展ぶりでした。しかし忙しかったですね。

【佐久間】二部授業になったりしてたいへんでした。

【玉 主】分校当時建てた古い校舎は「ほっ立て小屋」で歩くとぶゎんぶゎんとして太っている人はそっと歩いたものでした。

【高 田】冬のすき間風は寒かったですよ。つらかったことをおぼえています。

【司 会】第一回の卒業生として、思い出に残っていることはありませんか。

【斎 藤】入学の時は第二松江でしたが独立してから学校が家の近くになったので朝寝坊ができて助かりました。学校のまわりはお寺と文房具屋とお米やさんそれに青年会館ぐらいのものでした。

【高 田】ぼくは第二松江から西小松川への引越しが思い出されます。女の子がいすを持ち、男の子が机を運びました。わいわいいいながら楽しかったですよ。教室が不足したのでしょうか、今の児童公園のところに建っていた青年会館で授業をしていました。

【玉 主】そうです。会館をしきってやりましたね。

【斎 藤】卒業式や学芸会は三教室をぶち抜いてやりましたね。

【石 川】そうでしたね。会場がせまいので学芸会は四日も続けてやった時もありました。昭和三十二年に校歌ができました。作詞は今第三松江小学校にいらっしゃる桑田先生。作曲は平井孝三郎先生です。歌詞は昔の様子をそのまま表現していますね。

【玉 主】とにかく独立校の苦労はたいへんだったろうと思いますね。私も現在校長をしているのでよく分かります。

【宮 川】私は、学校は先生方にまかせ、区役所へ毎日毎日、日参したものでした。

【寺 尾】本当に大活躍でしたね。

【宮 川】多忙でしたが、活気がありました。寺尾さんが会長さんでいっしょになって力になってくれたからですよ。

【司 会】寺尾さんは父母の会の六年間新設校の蔭の力としてお骨折りくださいましたが、PTAになるための会則などたいへんご苦心があったように思います。その頃のお話をお願いします。

【寺 尾】PTAの会則は、川先生、南雲先生のお骨折りを得て、何回にもわたって作り変えました。後援会的なものでなくPTAの本質を追求し実践の上にたってできたものです。新聞にも大きくのり、日本全国の小学校から問い合わせのお手紙や電話がありました。また区内のPTAの会則の参考にもなりました。少し理想すぎて都の社会教育課から呼ばれたことがありました。短期間に理想に走りすぎたきらいがありましたね。

【宮 川】子ども会とか班集会などいろいろありましたね。

【玉 主】この辺の地域にあったPTA活動の一つでした。

【 川 】活動の目標は今と同じで子どもにとってよい父母、よい教師になることでした。学級集会に来られない方々の声も聞かれるように学校域の中の三町会を細分化し、七、八人の小グループにしたもので近所のおかあさんの集まりですから気楽に話し合いが重ねられるようにしました。話し合いの中から教育に関係したことは学級集会に持ちより解決していくようにしました。

【佐久間】子ども会は校外補導の一環として行われ、組織は班集会と同じく、三町会に名前をつけました。東は木の名、南は鳥の名、西は花の名をつけました。みんなで三十八班ありました。各子ども会には先生方も所属し行事に参加したものでしたが、最近は各班とも自主的に行われるようになってたいへん成長されたことをうれしく思います。

【司 会】昭和三十二年三月 初代宮川先生が勇退され山田校長先生が瑞江からいらっしゃいましたね。

【 川 】そうです。山田校長先生は柔道がお得意で子どものねんざ、骨折などはよく処置してくれましたね。

【佐久間】この頃児童数が千七百人以上になり区内でも児童数第一位の学校になりました。それで学区域を変更し新設された第三松江へ約百名の児童が転校することになりました。そのお別れ式が印象に残っています。この頃はコーラスも盛んでテレビやラジオにも出場しましたね。石川先生の指揮した写真がいまでも残っています。

【石 川】玉主先生はピアノが素晴らしくおじょうずでいつも伴奏をしていただいたものですね。

【玉 主】いつだったか忘れたが、劇も都の中央大会に出場したことがあったね。桑田先生の創作で「こがらし小僧」というのでしたね。舞踊の振付は佐久間先生、琴の曲は石川先生の創作、きっとみんな創作ということがよかったのかな。

【佐久間】なつかしいですね。あの劇は私が本校に来てすぐでしたから時間を無視しておそくまで指導したりして…。とにかく楽しかったです。

【司 会】山田校長先生のつぎに大森校長先生がおいでになりましたね。

【佐久間】大森校長先生は、とても読書家でいつも片手に本を持っていらっしゃいましたね。

【 川 】この頃、鼓笛隊をはじめて編成し、他校に先がけて演奏活動し江戸川区内では有名でした。

【石 川】なんでも新しいことをはじめるのはたいへんですけれど校長先生のご理解とご協力がとてもありがたかったです。

【司 会】つぎの校長先生は、大盛校長先生でしたね。大森先生、大盛先生と二代つづいたわけですね。

【 川 】そうです…。この頃プールをつくる話がもちあがり青少協や、区地域の方々のご協力によって区内では早いうちに完成しました。子どもからプール基金など集めたことを思い出します。校長先生、木村会長さんのお骨折りも今更に思い出します。

【佐久間】プール完成と共に桑田先生、安沢先生などの特訓がはじまり区でもおそれるレコードを出しました。陸上競技も強くて方々へ出場して優勝してきました。書き初めコンクールなども区長賞をとるなど秋葉先生もいっしょうけんめいでした。

【司 会】大森校長先生の時ですか十周年記念式典があったようですね。

【 川 】プール完成と木造校舎完成と合わせて行ったように覚えております。

【司 会】さて、この二十年の間に教員の大異動が二回あったようですね。

【 川 】創立以来居心地がよくってみんな十年以上になってしまったんですね。住みよかったのかな。

【玉 主】学校は古い先生がいなくてはいけないね。直接教えなくっても、卒業生にとってはなつかしいですよ。校舎も変わり、先生も変わってしまっては淋しいですよ。

【佐久間】第二松江小から移ってこられた方が大部分でしたから十年間一家族という感じでした。昭和三十九年四月十人以上の大異動はたいへん淋しくショックでした。昭和四十二年に第二回目の大異動で創立以来の先生方はほとんど変わられ石川先生と私だけが残りました。二十八年からずっと学校と共に過ごしてきたことになります。

【 川 】石川先生はあの頃とちっとも変わりませんね。

【玉 主】知っている先生がいてくれると卒業生も安心ですね。

【佐々木】そうですね。先生がいることはいいことですね。

【司 会】第一回の大異動の時、黒沢校長先生が見えられましたね。

【 川 】黒沢校長先生は「ふな」の大家で日本でも有名な方です。ふなとつりのお話でしたら何時間でもつきない方ですね。都や区の理科部長をされておられました。

【佐久間】その当時は理科の指導研究が盛んになりました。五年生の「ふな」の解ぼうには白衣をきて自ら授業を行っていらっしゃいました。現在は区民センターで活躍されていらっしゃいます。

【 川 】その頃PTA会長さんは福田さん、伊ケ崎さん、吉田さんとかわり校長先生と共に体育館の敷地問題、第一期工事の促進工事にずいぶんと尽力くださいました。

【司 会】つぎに鎌田校長先生が第二松江からこられましたね。

【石 川】着任そうそう体育館を完成し「たんれん山」にはたいへんユニークなアイデアをおだしになりました。自らくわやシャベルをとって校庭の環境整備に力をいれましたね。

【佐久間】その間、理科の自主研究発表会、国語の区協力校の研究発表会など、鉄筋校舎工事のおちつかない中で着々と地道な授業研究を続けました。

【司 会】そしていよいよ上山先生になられたのですね。

【佐久間】鉄筋工事の三期、四期の最悪の環境の中においでになりました。教室の移動で校長先生はプレハブに移りましたが、その床のひどいこと木がもり上がって波ができその上を歩くと教室全体がガタガタと大ゆれするのです。子どもたちの遊び場のないことをたいへん心配なさってPTA前川会長や、井上副会長と共に区役所にいろいろとはたらきかけにいかれていました。

【石 川】運動会は二回とも二中で行い校長先生をはじめとして全職員が苦労しましたが本年は、はじめて本校でできるわけです。

【佐久間】完成までのお骨折りをなさり、完成と共に退職なさることはこれからというのに残念でなりません。

【寺 尾】この学校の特色とか伝統というものは。

【佐久間】いろいろな見方がありますが、本校を去られた先生方が離れてみてよかったといわれます。

【宮 川】今では、校長、教頭になった人がたくさんいます。校長では玉主、川先生、教頭では山内、氏家、秋葉、南雲、八木先生などでしょうか。とにかくみんな揃っていました。

【 川 】子どもたちも明るく親しみやすくていいですね。方々歩くとよくわかりますよ。

【玉 主】父母の方々も気さくできどらず話しやすいですね。

【石 川】方々歩かないのでよくわかりませんが、この学校のよさはそんなところでしょうか。音楽会など外に出ると、きちんとして行儀がよいと、よくほめられました。場を心得ているというのかしら。

【佐久間】木造校舎がすっかり鉄筋に変わり昔のおもかげはありませんが、私の心の中にはいつまでも伝わってきているものが、有形無形にあるような気がいたします。言葉ではうまく言い表せませんが、年うつり人変わる中に生きているもの、伝わっていくものがあるような気がします。

【司 会】そろそろ時間も終わりにちかづいたのですが、このあたりで現在の会長さんに一言。

【佐々木】大役をおおせつかり責任を感じます。伝統のあるこのPTAを更に発展させるために先輩諸氏のと意見を聞きながら望ましいPTAの在り方をみんなできめこまかに勉強していきたいと思います。

【司 会】六月九日午後二時三十分、先生方や父母の方々の見守る中に木造校舎の最後の防火壁が大音響と共に砂塵を高くまい上げてその影を没し新しい校舎のみとなりました。夏休み中には校庭も新しくりっぱに生まれかわることになっています。二学期が楽しみです。最後に今後の西小松川小の発展について校長先生の抱負をお伺いしたいと思います。

【校 長】現在も先生方は児童の指導にたいへん熱心です。またPTAの方々も伝統が生かされていまして、なごやかな中にも積極性があり、学校に協力していただいております。私がきましてから二年間工事が続きその間千百人の子どもの遊び場がない状態で体位の向上に比べ運動能力のおちていることがとても心配でした。二学期からは校庭も広くなりますので先生方の指導で往年の意気を盛りかえして子どもたちも大いに力を発揮すると思います。工事工事でおちつきのない日々であったことから昨年より道徳教育の面に特に力を入れて指導してきました。本年は区の奨励校としてますます子どもの道徳性の育成にと、はげんでおります。本校の伝統を生かしりっぱな学校にしてきたいと考えております。今後も皆々様のご協力をお願いしたいと思います。この座談会が記念誌をかざりまして今後の発展の原動力になるよう努力いたします。貴重なお話をありがとうございました。

【司 会】短い時間ではありましたがこれで座談会を終わりたいと思います。いろいろとありがとうございました。

○日時 昭和四十七年七月四日(火曜日)午後七時

○場所 西小松川小学校 一の一教室

 この日、昼間の暑さはどこへやら、ゆうがたから涼しい南の風が吹き、すぐる年、蓮田をわたりし風はさぞかしと察せられました。出席者一同話題がつきることなくつづき、終了は午後九時三十分になりました。

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引用は以上です。