学区域の史跡と名所

二之江中の学区域にある史跡や名所

昭和40年代の二之江中周辺の地図

右上に二之江中開校予定地として広大な「蓮池」があります。南東方向に金魚池が限りなく広がります。
かつて奈良県の大和郡山、愛知県の弥冨、東京都の江戸川区が金魚の三大産地と言われていました。
この地図は学校評議員の中里文江さんが提供してくださいました。

紹介する史跡と名所

一之江境川親水公園 法龍寺(ほうりゅうじ)〈食用蛙(かえる)供養塔〉 日枝(ひえ)神社〈船堀の富士塚、乾海苔創業記念碑〉
熊野(くまの)神社〈おくまんだし、松尾芭蕉の句碑、梅見の句碑〉 宇田川家長屋(ながや)門〈行徳道石造道標〉 二之江神社〈ケヤキの大木〉
福寺(しんぷくじ)〈橋本省吾の墓〉  蓮華寺(れんげじ) 古川親水公園
妙勝寺(みょうしょうじ)〈紙本墨書大曼茶羅〉 妙光寺(みょうこうじ)〈木造日蓮聖人坐像 附・台坐板墨書(文禄3年)〉   新川(しんかわ)〈川蒸気船通運丸〉 一之江ひだまり公園

一之江境川親水公園

かつて一之江境川は、東一之江と西一之江との間を流れ、用水路、船の運航路として利用されていました。
 平成7年3月、今井街道より上流が、翌年四月下流が完成し、全長3.2kmの清流が戻りました。この親水公園は、水辺の生物と共生できる環境を目指して、自然の川に近い造りになっています。川岸や川底に工夫を加え、魚や昆虫、水生植物が生息できるようにしています。新中川の水をそのまま放流している流れには、ハゼ、スズキ、テナガエビなどがいて、釣り糸を垂らす人の姿が多く見られます。


法龍寺(ほうりゅうじ) 船堀6-9-30 都バス「陣屋橋」東北へ100m地下鉄「船堀駅」南東へ600m

浄土宗で、幸運山道観院(こううんざんどうかんいん)と号します。本尊は阿弥陀如来です。
慶長年間(1596-1615)に幸運社雲誉道観法竜上人(こううんじゃうんよどうかんほうりゅうしょうにん)(元和2年-1616寂)が開山しました。三世深誉(しんよ)上人(元禄15年-1702寂)の時、近在の源法寺の末になりました。
境内にはたいへん珍しい食用蛙供養塔のほか、北辰一刀流の武芸者北島桃原の墓や旧東船堀村に大岡学校という私立小学校を開設した大岡勇喜(ゆうき)の碑があります。
〔文化財・区登録〕青面金剛像庚申塔(寛文4年銘)、大岡勇喜頒徳碑

■食用蛙(かえる)供養塔
 門前にあります。食用蛙は昭和になってから区内に生息するようになり、池や沼、蓮田、水田などで繁殖を続け、その美味を買われて外国へも輸出されました。昭和25年には年間およそ2万t以上も捕獲されましたが、乱獲のため激減しました。
この供養塔は昭和27年10月、東京都食用蛙組合の人々によって建立されました。塔身は高さ47cm、幅25cm、厚さ15cmで、正面上部には食用蛙の図が描かれています。(写真左)たいへん珍しい供養塔です。


日枝(ひえ)神社 船堀6-7-23 都バス「陣屋橋」東北へ150m、地下鉄「船堀駅」南東へ600m

旧船堀村東組の鎮守で、村社でした。祭神は国常立尊、左右相殿に春日大明神と稲荷大明神を祀ってあります。慶長19年(1614)船堀新田開発の際に守護神として山王権現(ごんげん)を祀ったのが始まりであるといわれています。別当は隣りの光明寺で、明治6年に日枝神社と改称しました。境内には、富士塚、百度石などがあります。また、神社の入口には乾海苔創業記念碑が建っています。
〔文化財・区登録〕船堀の富士塚
■船堀の富士塚
 明治25年、登山講によって築造されたものです。登山講は明治時代で廃絶(はいぜつ)されたといわれています。高さに比べて面積は広く、椀状に盛土された容姿は、他の富士塚と違った印象を与えます。石碑は2基で、全山ボク石に覆(おお)われています。
■乾海苔創業記念碑
明治30年建立で、高さ146cm、幅130cm、厚さが18cmあります。船堀村の乾海苔創業の由来とその功労者名が刻みこまれています。


熊野(くまの)神社 江戸川5-7-6 都バス「下今井」南へ100m 地下鉄「一之江駅」南へ1?

旧下今井村の鎮守で、俗に「おくまん様」といわれ、宝永年間(1704-1711)の創立です。祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)、昔から江戸川を上下する舟人の信仰を集め、お宮の前を通る船は帆を下げて、船路の安全を祈ったということです。
■おくまんだし
 熊野神社前の江戸川は水流の関係で深い淵(ふち)となって、その水流が堤を壊すのを防ぐために、たくさんの「だし杭(くい)」が打ってありました。 ところで、このあたりの水は、きれいでこなれているので、おいしい水として有名で、昔、徳川将軍家は船をつかって、ここの水を城内に運び、茶の湯などに用いたと言われています。そこでここの水を「熊野神社のだし杭のあるあたりの水」、すなわち「おくまんだしの水」とよんで珍重しました。また、野田の醤油の製造にもこの水が使われたといい、さらに、本所・深川・大島あたりにもこの水が売られたと言うことです。今でも「水屋」という屋号の家があります。
■松尾芭蕉の句碑
 当神社の境内、鳥居をくぐってすぐ左側に建っています。当時芭蕉は深川に住んでいましたが、おくまんだしの清らかな水を慕って訪ずれ、
 茶水汲む おくまんだしや 松の花
の一句を詠んだと伝えられています。
 現在このあたりは堤防も高く、川水も濁って昔の面影をしのぶことは出来ません。かつて清流をたたえ、松影ゆれる景勝の地であったことを後世に伝えようと、土地の有志の方々が、昭和42年10月15日に建てたものです。
■梅見の句碑
 境内の右隅に、この句碑がたっています。これは、もと梅屋敷とよばれた大塚氏(新左衛門)邸内にあったものだといわれています。寛政7年(1795)に建てられたものです。
(表面)菅家写梅見門 あしあらふ ながれに梅のにほひかな
(裏面)寛政七年卯とし五月 庭作松次郎


宇田川家長屋(ながや)門 江戸川5-4 都バス「下今井」西へ100m

木造、茅葺き、平家建で、入口両脇の部屋には武者窓がついています。間口13m、奥行3.2m、軒下までの高さ2.5m。建築年代は不明ですが、江戸時代後期と推定されます。
 宇田川家の先祖は後北条氏の家臣宇田川喜兵衛定氏で、字喜新田三千石の開拓者です。同家は代々村役人を務めた旧二之江村の旧家です。
 江戸時代には身分や格式によって屋敷の門構えや長屋門の建築は厳しく制限されていました。区内には長屋門のある家が少なく、これを含めて2棟が現存しています。
 この門は、茅葺きのまま比較的よく原形を保ち、また、よく手入れされ保存されており、武者窓つきの貴重なものです。
〔文化財・区指定〕宇田川家長屋門
〔文化財・区登録〕二之江の行徳道石造道標
■行徳道石造道標
宇田川家長屋門の前にあります。高さ67cm、回り152cm、丸い自然石で、正面には「是ヨリ左り行徳道」、左面には「田中孫右衛門」とあります。元は現在地より西へ約30m、突留橋の東たもとにありました。


二之江神社 江戸川6-44 (都バス「下今井」下車 西へ500m)

二之江神社は、昭和42年11月に、香取神社と八幡神社を合祀して二之江神社と社号をかえたもので、現在の境内はもとの香取神社のものです。香取神社の創建は不詳ですが、八幡神社の創建は寛文年間(1661-1673)です。
 境内のケヤキの大木は樹齢500年以上といわれています。周囲約4.4m、高さ約20mで、区内で最も大きなケヤキです。
〔天然記念物・区登録〕


真福寺(しんぷくじ) 江戸川4-23 都バス「下今井」西へ100m

真言宗豊山派で、覚王山不動院と号し、善養寺の末でした。宝徳3年(1451)乗善法印(じょうぜんほういん)が開山し、後に覚誉(かくよ)法印が中興しました。本尊は、不動明王です。
 現在の本堂は、鉄筋コンクリートで昭和45年に新築されました。
墓地内には下今井村出身で、区内最初の代議士、橋本省吾の墓があります。〔文化財・区登録〕法印中阿筆子塚
■橋本省吾の墓
 橋本省吾は幼少の頃から学を好み、長じて政界を志して村会議員、府会議員を経て、明治27年に衆議院議員になりました。


蓮華寺(れんげじ) 江戸川6-4 都バス「下今井」西へ350m

真言宗で、海照山普門院と号します。本尊は聖観音ですが、この本堂に不動明王の立像が安置してあり、昔から「虫除け不動」として信仰を集めました。寺伝(じでん)によると、往古からこの地に観音堂がありましたが、永享10年(1438)に栄源法師が不動明王像を背負って遍歴(へんれき)して、この地に永住することになったので、地元民が協力して堂宇(どうう)を建て、蓮華寺と称したのがその始まりであるといわれます。


古川親水公園 江戸川6丁目 都バス「古川親水公園」

この公園は、宇田川家長屋門脇からはじまり、環状七号線を横切って三角にある新川橋まで、全長1.2kmあります。江戸川の旧河道である古川の流れをそのまま公園にしたもので、国内の親水公園第1号です。
 古川は、江戸川を下る水路として古くから使われていたようです。天正18年(1590)家康が江戸城に入ってからは、行徳の塩を江戸へ運ぶ重要な水路となりました。のち(寛永6年—1629)に幕府は新川を開き、通運の使命を新川に移しましたので、この水路は古川と呼ばれるようになり、生活の川となりました。しかし、その後時代の変遷と共に、この地にも都市化の波が押し寄せ、古川もいつしか川としての生命を失ないかけていました。そこで区では、地域の人々の生活とともに歩んだ古川をなんとか川として残せないかと検討し、水と緑に親しめる新しい公園にすることを計画、昭和四九年四月に親水公園として完成させました。当時は、埋め立てて道路にしたり、蓋をして通路にしてしまうのが都市河川の常識でしたので、この試みは内外の注目を集めることとなりました。昭和四九年五月には全日本建設技術協会から建設界の最高の栄誉である「全建賞」を受賞。また、日本国内で高く評価されるばかりでなく、1982年にアフリカのナイロビで開催された国連人間環境会議で世界的に紹介されました。
今でも、自然の味わい豊かなやすらぎの場として区民に親しまれています。

ウィキペディア古川親水公園

妙勝寺(みょうしょうじ) 江戸川6-7-15 都バス「下今井」古川沿い西へ500m

日蓮宗で、本覚山成就院(ほんかくさんじょうじゅいん)と号し、もとは中山法華経寺の末寺です。区内でも古い寺院で、土地の人は「黒門寺」とか「ジョウジン」と呼んでいます。寺伝によると、弘安7年(1248)堀江の浦(葛西沖)に難船が漂着(ひょうちゃく)し、残されていた童子を二之江村の漁師五郎という者が救いあげました。その童子(どうじ)は平家の末葉であるといわれ、後に中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、成就院日尚(にっこうしょうにんにっしょう)と名のって古川べりの妙見堂のかたわらに草庵を結びました。これが妙勝寺の始まりで、徳治2年(1307)3月のことであったといわれます。
 寺宝として徳川光圀筆の日蓮聖人画像があります。
〔文化財・区登録〕紙本墨書大曼茶羅
■紙本墨書大曼茶羅
 天保14年(1843)小島に住む控井権右ヱ門(うついごんえもん)が、32世日信の代に寺に寄進したと記録されています。また、二幅ともに日高・日祐(ゆう)上人の真筆であることを認めたという証文があります。


妙光寺(みょうこうじ) 江戸川6-15-5 都バス「三角」古川沿い東へ150m

日蓮宗で、栄長山常泉院と号し通称「赤門寺」といわれます。開山は日能(にちのう)上人(正保2年−1645−没)です。「新編武蔵風土記稿」によると、当寺には「十界勧請の本尊と祖師」を安置するとありますが、この祖師が現本尊です。境内には七面殿があって、「海中出現七面大明神」、また、鬼子母神(きしもじん)や庖瘡(ほうそう)の神も祀られています。
寺宝としては、日乾(かん)・日遠(おん)・日重(じゅう)筆の曼茶羅(まんだら)があります。慶長9年(1604)、元和3年(1617)、元和9年(1623)のものです。
〔文化財・区登録〕木造日蓮聖人坐像
■木造日蓮聖人坐像 附・台坐板墨書(文禄3年)
 文禄3年(1594)頃の製作で、作者は不明です。像高21.6?の小さな像ですが、形容がよく整っています。ヒノキ材の寄木造(よせぎつく)りで、目は玉眼、紫色の衣と金欄の袈裟を着け彩色がしてあり、笏(しゃく)とお経の巻物を持った通常の像容です。


新川(しんかわ)・新川千本桜 江戸川5-29先〜船堀2-1先 都バス「新川口」「三角」「七軒町」下車 地下鉄船堀駅南へ400m

江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ中川に至る流路は、もとは船堀川とよばれていました。家康が江戸へ来て、江戸の城下町づくりが始まると、この流路は行徳の塩を江戸へ運ぶために重要となり、小名木川が掘られ、さらに寛永6年(1629)幕府は、船堀川の三角以西を掘り拡げると共に、三角から江戸川までは新たに陸地を一直線に開削し、もとの川を古川、新しい川を新川と呼ぶようになりました。
 新川は、のち江戸幕府の発展と共に、単に行徳の塩だけでなく、船運の重要な川となりました。すなわち、利根川の東遷、江戸川の改修によって、利根川—江戸川—-新川—小名木川のルートは、北関東や東北から江戸へ物資を運ぶ重要な役割を果すようになりました。明治に入ってからは、有名な川蒸気船通運丸が就航したほか、江戸近郊の村々と江戸を結ぶ通船や物資を運ぶ船が新川を行き交いました。
 現在の新川は、平均幅員約30m、全長約3km、東水門から導水し、西側のポンプ所で排水、水質浄化をはかり、水位を一定に保っています。
 現在、両岸の護岸上部は撤去され、テラスや散策路等ができ、区民に親しまれています。また、全国で初めての地下駐車場がつくられ利用されています。〔史跡・区指定〕
○ 川蒸気船通運丸…大正初期の時刻表によると江戸銚子間の所要時間は18時間で一日2往復でした。
○ 平成27年4月5日、新川千本桜の整備完了を祝し、第一回新川千本桜まつりが新川さくら館にて催されました。   開催ポスターの題字は、本校学校評議員の中里文江さんが書かれました。↓

↑江戸川区リーフレット「新川千本桜」の表紙より


一之江ひだまり公園 一之江7丁目

この公園の土地は、かつて小川が流れ田園が広がる地域でした。一之江西部地区土地区画整理事業により、地域住民と協働した「公園づくりワークショップ」が立ち上がり、地域コミュニティの核となる空間づくりをコンセプトに公園が完成しました。
芝生が広がる中にせせらぎと湿地がある地域の原風景が表現されています。また、自然エネルギーの活用や環境の創造にも取り組み、せせらぎの水は雨水貯留施設より供給され、ポンプの電源には太陽光発電が活用されています。水辺の周囲には太陽光と風力で発電するハイブリッド照明を3基設置されています。
せせらぎには田んぼの土を入れ、水生植物を植え、湿地の環境を再現したビオトープとしてトンボやアメンボが生息を始め、都市の中の身近な自然として子供たちの関心を集めています。



一之江駅西口駅前広場 一之江7丁目

都営新宿線一之江駅の駅前広場は、平成14年に「一之江駅西部都市区画整理事業」の一環として工事着工し、平成17年に完成しています。
平成19年度に一之江駅前商店会が発足し、明るくゆったりとくつろげる、誰もが来てみたくなる駅前広場を造ろうと、店舗の選定や色調の統一など質の高いまちづくりを自主的に進めてこられました。
平成19年4月に初めてのイベント「春まつり」が開催され、現在に至っています。本校の民舞和太鼓部も毎年、この春まつりに参加させていただき演奏や演技を行っています。
晩秋になると、広場中央にあるクスノキや敷地内の木13本にイルミネーションライトが点灯されるカウントダウンイベントも催されます。